達磨大師の生涯や教えとは?だるまの起源、達磨大師!
縁起ダルマ、雪ダルマ、ダルマさんがころんだ、ダルマ落としなど日本人にとって馴染みの深いダルマさん。
ダルマさんは達磨大師という実在した高僧に由来しています。
そんな達磨大師の生涯や教えをわかりやすくまとめましたので、是非お読みください。
達磨大師とは
名前
「ダルマさん」の愛称で親しまれている達磨大師には多くの呼び名があります。
幼名は「菩提多羅」、僧名は「菩提達磨(梵語:Bodhidharma =ボーディダルマ)」(※唐時代より前では「達摩」と表記)、諡(おくりな)は「円覚大師」、その他に「達磨」「達磨大師」「達磨祖師」などなど。
この記事では基本的に「達磨大師」と表記してお伝えします。
出生地
南天竺(南インドのあたり)
生没年
不詳
(4世紀?〜528年10月5日? ※150歳まで生きたという伝説に基づく)
生い立ち
南天竺の香至国(カンチープラ)の第三王子(三男)として生まれました
何をした人?
禅をインドから中国に広め大成させた、中国禅宗の開祖(創始者)
達磨大師の生涯
幼い頃から聡明だった達磨大師
達磨大師は4世紀の終わり頃、南天竺の香至国の第三王子(三男)として生まれました。
達磨大師が7~8歳の頃、般若多羅尊者というお釈迦様から数えて二十七代目の高僧が香至国を訪れます。
そして、般若多羅尊者は達磨大師の父である国王から宝珠を賜わりました。
その際、このような問答がありました。
この立派な発言は般若多羅尊者や国王、周囲の者を驚かせました。
その後、達磨大師は国王(父)の死をきっかけに般若多羅尊者のもとで出家し、40年余り修行に努めます。
修行の後、インド各地で67年間にわたり布教を続けました。
そして、般若多羅尊者が亡くなった後、遺言に従い、唐(今の中国)に3年かけて船で渡ります。
皇帝に「不識」と喝
中国各地で10年間布教をした後、西暦520年に梁の武帝という皇帝に招かれます。
その際、このような問答がありました。
武帝は達磨大師の真意を理解できず、達磨大師は武帝のもとを去りました。(後に武帝は後悔しますが、呼び戻すことはできませんでした)
そして、達磨大師は蘆(アシ)の葉に乗り、揚子江を渡って崇山少林寺(武術で有名な中国の寺)へ向かいます。
この姿は『藘葉達磨図』という有名な画題になり、宮本武蔵や沢庵和尚などに描かれるようになりました。
少林寺での面壁九年
崇山少林寺では裏山の洞窟に入り、壁に向かい9年間坐禅を続け、悟りを開きました(面壁九年)。
人々はこの姿を受けて、達磨大師のことを「壁観婆羅門僧」と呼び敬ったそうです。
弟子の慧可断臂
ある大雪の夜、神光という僧侶が達磨大師のもとを訪れ、繰り返し弟子入りを求めました。
しかし、何も応えてもらえない神光は自ら自分の左腕を切り落とし、達磨大師にその心を差し出します。
達磨大師はその決意から入門を認め、神光の名を慧可(えか)と改めました。
この求道の場面は『慧可断臂図』として雪舟などに描かれ、「慧可断臂」という四字熟語にもなりました。
※慧可断臂(えかだんぴ):強い決意や真意を相手に示すこと
後に慧可は禅宗の第二祖となり達磨大師の教えを中国で広め、その教えが日本に伝わり、今日の禅宗の礎となっています。
達磨大師の伝説
達磨大師は反発する僧たちに毒を6度盛られ、西暦528年10月5日(※諸説あり)に150歳で入寂したと言われています。
しかし、達磨大師の逸話は亡くなった後も続きます。
生き返った達磨大師!?
宗雲という皇帝の使者がインドから洛陽に帰る道中、裸足で履物を片方だけ手に持つ僧に出会いました。
宗雲「どちらに行かれるのですか?」
僧 「西インドへ帰るところだ」「ときに孝明皇帝が崩御したぞ」
宗雲が洛陽に帰ると、孝明皇帝は亡くなっており、新皇帝の孝荘が即位していました。
この話を宗雲が孝荘に告げると、孝荘は「その僧は達磨大師であろう」と言います。
達磨大師が埋葬されていた熊耳山定林寺の墓を開けると遺体はなく、片方の履物だけが残されていました。
これをきっかけに、定林寺は空廂寺(空の箱という意味)という名になったそうです(現在は空相寺)。
この宗雲が達磨大師に出会った場面を描いた絵画を『隻履達磨図』といい、白隠などに描かれています。
日本で聖徳太子に会っていた!?
613年12月に聖徳太子が奈良の片岡山で飢えた人に出会い、食べ物や自分が纏っていた紫の衣を与え助けました。
程なくその人は亡くなり、聖徳太子は墓を作り厚く葬りました。
しかし、後日墓を開けると遺体はなく、聖徳太子が与えた紫の衣だけ残されていました。
この話は『日本書紀』や『元亨釈書』に残されており、「片岡山飢人伝説」などと呼ばれています(『万葉集』でも残されていますが、大阪の竜田山と記されています)。
この飢えていた人は達磨大師の化身だと考えられるようになり、片岡山に達磨寺が開基されました。
達磨大師の教え
禅とは心が動じることのなくなった状態を指し、坐禅などの修行を通じ悟りの境地に至るのが趣旨です。
悟りの境地や教えは自らの身を以てのみ体験でき、言葉や文字で伝えられるものではないと達磨大師は唱えています。
ですが、ここではできる限りわかりやすく達磨大師の教えをお伝えします。
四聖句
四聖句(しせいく)とは達磨大師が唱えた禅の根本思想です。
・不立文字(ふりゅうもんじ):悟りを文字で示すことはできない。
・教外別伝(きょうげべつでん):教えは言葉ではなく、心から心に伝えられる。
・直指人心(じきしにんしん):ただ自分の心と向き合うのみ。
・見性成仏(けんしょうじょうぶつ):自分の心を見つけることで、悟りの境地に至る。
二入四行論
二入四行論(ににゅうしぎょうろん)とは達磨大師の教えを記した悟りへの道のりです。
悟りへの道には理論から入る「理入」と実践から入る「行入」があり、「行入」には4つの実践段階(報冤行、随縁行、無所求行、称法行)があります。
①報冤行(ほうおんぎょう):苦しみは過去に犯した悪因の報いとし、甘んじて受け入れること。
②随縁行(ずいえんぎょう):苦楽は縁に従うので、心動かされずにただ道を進むこと。
③無所求行(むしょぐぎょう):苦しみのもととなる求める心を無くすこと。
④称法行(しょうぼうぎょう):仏法に従い六波羅蜜を行うこと。
※六波羅蜜:六種の修行。布施(施す)、持戒(戒律を守る)、忍辱(耐え忍ぶ)、精進(ひたすら努力)、禅定(精神統一)、知慧(真理、悟りの完成)
壁観
壁観(へきかん)とは達磨大師の宗旨(教え)の特徴です。
壁観は「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」ということ。
壁観は面壁九年の起源という説もあり、後の『坐禅の定義』として継承されています。
達磨大師とだるまの関係
だるまは達磨大師が起源
縁起物の「だるま」は達磨大師が赤い衣(緋色の法衣)をまとい坐禅をしている姿を模したものです。
緋色の法衣は時代や宗派によって変わりますが、仏教の中で最上位の位階を意味しています。
禅宗の開祖である達磨大師の位の高さや、だるまの定番色が赤い理由がここから伺えます。
だるまに込められた精神性
だるまは達磨大師の「不撓不屈」の精神性に、起き上がりの「七転び八起き」の精神性や縁起のいい絵柄など様々な要素が相まっています。
そのため、だるまは単なる置物にとどまらず、手を合わせる対象として人々の心を高めてくれる存在になります。
だるまとは日本の伝統的な縁起物で、祈願や心を引き締めるためのシンボルです。
だからこそ、没後1500年経つ今も、達磨大師はだるまとして姿を変え多くの人に親しまれているのでしょう。
まとめ
達磨大師は禅をインドから中国に広め大成させた、中国禅宗の開祖(創始者)です。
達磨大師には様々な逸話が残されており、いずれもその徳の高さが伺えます。
達磨大師の教えには四聖句という禅の根本思想や、二入四行論という悟りへの道のりなどがあります。
また、縁起物の「だるま」は達磨大師を模したもので、祈願や心を引き締めるためのシンボルとして現在でも多くの人に親しまれています。