だるまを左目から入れる理由や目入れの由来を徹底解明

だるまを左目から入れる理由や目入れの由来を徹底解明

以前、だるまの基本的な目入れに関する記事を書きましたが、この記事ではなぜだるまの目を左目から入れるようになったのか、そもそもなぜ目を入れるようになったのか、を深掘って行きたいと思います。

少しマニアックな話になりますので、目入れの記事(こちら)の補足として読んでいただければと思います。

 

 

高崎だるまは左目から入れるのが基本

高崎だるまはだるまにとっての左目(正面から向かって見て右側)から入れるのが基本です。

もちろん、地域や用途によって様々な目の入れ方や風習がありますので、厳密になる必要はありませんが、

あくまでもこの記事ではだるまが左目から入れると言われている所以をお伝えできたらと思います。

 

 

なぜだるまは左目から入れるのか?

左目から入れる由来は諸説ありますが、結論、日本の「左上位」や「阿吽」の考え方、中国の思想が深く関係しています。

 

左を上位、右を下位とする日本の伝統礼法

「左上位(左上右下)」とは「左を上位、右を下位」とする日本の伝統的な礼法・しきたりです。

この考え方は飛鳥時代に中国から遣唐使を通じて伝わり、様々な場面で取り入れられています。

・席次のマナーにおいて、右と左なら左側が上座

・大臣の位において、左大臣と右大臣なら左大臣の方が上

・国会議事堂の配置において、左側が貴族院の流れをくむ参議院、右側が衆議院

・舞台での客席の呼び方において、左側が「上手(かみて)」、右側が「下手(しもて)」

※いずれも見る側からではなく、偉い人や当人が向いている方から見て左が上位

 

阿吽が表現されている

阿吽とは、阿(あ)が物事の始まりを、吽(うん)が物事の終わりを指します。

阿吽は左右の配置が決まっており、神仏から見て左が阿、右が吽となります。

神社やお寺でも狛犬や金剛力士像が境内(神仏)から見て左に阿、右に吽の像が位置しているのが基本です。

だるまの目入れも左目に始まり(阿)、右目に終わる(吽)点で共通しています。

中には、僧侶がだるまの左目に阿の文字を、右目に吽の文字を入れる寺社やだるま市もあるようです。

ではなぜ、左が上位や阿、右が下位や吽となっていったのでしょうか。

 

「陰陽五行思想」と「天子南面す」

「左上位」や「阿吽」の考え方は元々、中国の「陰陽五行思想」や「天子南面す」という考え方に影響されて生まれました。

陰陽五行(いんようごぎょう)は春秋戦国時代(3世紀頃)の中国で生まれた宇宙生成の理論で、陰陽説と五行説が合わさった思想です。

現在の日本でも使われている暦や干支、方角などは、陰陽五行の影響を受けて作られたものです。

陰陽五行では日が東から昇り西に沈むように、東より物事が生まれ(陽)、西で無くなる(陰)という考え方があります。

また、中国では古くから「天子南面す」という考え方があり、玉座は不動の北極星を背に南を向いているのが善いとされています。

南に向かって座ると、物事が生まれる東(日の出)が左、物事が終わる西(日の入)が右に見えます。

このことから左が上位、右が下位とする「左上位」が始まり、「阿吽」の配置が決まったと考えられます。

 

だるまにおいてもだるまを南に向けると、東が左、西が右となり、始まりは左目から入れるようになりました。

また、だるまの赤は火を表しているとも言われ、陰陽五行において火は南の方位を示します。

これらのことから、だるまは南から東に向くように置くと縁起がいいと言われています。

 

 

だるまに目を入れるようになった由来

元来、だるまの目は入っていた

実は、もともとだるまは目の描かれた状態で売られていました。

だるまの人形としてのルーツである酒胡子や不倒翁、起き上がり小法師も目が描かれていて、使用者が目を入れるという作法はありませんでした。

しかし、高崎だるまをはじめ、多くの地域のだるまは目が描かれていない目無しだるまです。

では、どのようにして目無しだるまが生まれたのでしょうか。

 

目無しだるまの登場はいつから?

赤く丸い張子のだるまが誕生したのは江戸時代中期(1700年頃)、目が描かれている状態で売られていました。

目の描かれていない目無しだるまが登場したのは1781〜1801年(天明〜寛政)の頃と言われています。

よって、だるまの登場から約100年は目が描かれている、目ありのだるまが主流だったということです。

だるまに目が描かれなくなった目無しだるまの誕生には、あるきっかけがありました。

 

目入れのきっかけは流行病

江戸時代には疱瘡(ほうそう、別名:天然痘)という病気が大流行していていました。

当時、疱瘡は不治の病で、感染率や死亡率が高く、失明の可能性もありました。

人々は疱瘡を疱瘡神の仕業だと信じるほど恐れており、疱瘡神は火や血の色である赤を嫌うと言い伝えから、赤いだるまは疱瘡除けとして重宝されていました。

疱瘡除けのおまじないで、目が綺麗に描かれているだるまを選ぶ風潮があり、中にはお客の求めに応じて、その場で目を描くだるま屋もいたそうです。

その後、自分自身で目を入れられるようにと目無しだるまをだるま屋が製作したと言われています。

 

史料などに残されていませんが、おそらく目無しだるまはこのような洒落っ気もあったのだと思います。

・「願掛け」と「眼書け」(ガンカケ)を掛けた洒落

・「画竜点睛」、あえて目を残し、願いが叶ったり、節目に目を入れて仕上げる

(画竜点睛は武帝が張僧繇という画家に龍の絵を描くよう命じて生まれた話ですが、武帝は達磨大師と一悶着あった皇帝でもあります。詳しくは達磨大師の記事(こちら)をお読みください。)

こうして、目無しだるまは願掛けだるまとして人気になり、定着していったのだと考えられます。

 

目入れが願掛けのシンボルに

はじめは「疱瘡にかからないよう」、「目を失わないよう」という願いから生まれた目無しだるまが、願いを叶えるためのシンボル、願掛けだるまとして親しまれるようになりました。

その理由は、だるまの目を入れる開眼が祈願や誓願の作法となったからだと考えます。

この気持ちを込める作法が今も皆様にだるまを親しんでいただけている理由の1つだと思います。

 

 

まとめ

だるまを左目から入れる理由は左を上位とする「左上位」や、左を物事の始まりとする「阿吽」の考え方があったからです。

「左上位」や「阿吽」の配置は中国の「陰陽五行思想」や「天子南面す」という考え方に影響を受けて生まれました。

また、だるまに目を入れるようになった由来は江戸時代に流行った疱瘡という、失明の可能性がある病気への魔除けがきっかけです。

疱瘡除けのおまじないとして目の綺麗なだるまを選ぶ風潮から、だるま屋があえて目無しのだるまを製作しました。

目無しだるまは願掛けだるまとなり、目入れ(開眼)は今も縁起物として大切な要因の1つになっています。

 

 

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